留学生活は「ぶつかっていく」積極性がカギ!

斉藤真紀子
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前回に続き、12歳でオーストラリアに単身留学したという珍しい経歴の持ち主である、クィーンズランド州政府 駐日事務所の商務官、髙嶋大士(だいじ)さんのインタビューをお届けします。留学生活が自信に変わったきっかけとは何だったのでしょうか。

オーストラリア クィーンズランド州政府 髙嶋 大士

 

 前編はこちら:

英語の交渉力は「雑談で会話をほぐす力」が決め手!

 

 

ホームシックで泣きながら家に電話した

 

 

12歳での単身留学は珍しいですが、どのようなきっかけで決断されましたか?

 

「政治家になりたい」と考え、経済を勉強しているような子どもでしたが、中学受験の学習塾に行くと、まわりはできる生徒ばかり。この人たちに勝つにはどうしたらいいだろうと考えていました。

 

小さいころから、父がアジア、アメリカ、ヨーロッパなど海外出張に連れていってくれたのですが、オーストラリアが大好きだったので、小学校6年の夏、「サマースクールに2週間行かせてほしい」と頼みました。オーストラリアの小学校は教科書もなく、サッカーボールを力いっぱい蹴っても広大なグラウンドからはみ出ることなく、みんな勉強やスポーツを楽しんでいた。

 

「自分は国際人になってやろう」と、負けず嫌いだった子どもなりに決意しました。「中学生から留学させてほしい」と親に頼み、ゴールドコーストの学校に行くことになりました。治安もいいので、親も「オーストラリアなら」と許してくれたようです。

 

ホームシックになる年ごろですが、困難をどう乗り越えましたか?

 

サマースクールは2週間で楽しかったですが、実際の留学は大変でした。当時インターネットもなく、親に電話するのは水曜日の夜8時から1時間だけと決められていました。ホームシックで泣きながら電話しても、時間がきたら電話を切られました。

 

日本の情報もなく、ラジオの周波数を夜NHKに合わせて、戦後の放送みたいな音質で日本語が流れてくると、それだけで涙が出ました。ゴールドコーストの山の中で、「政治家になりたい」という夢は遠ざかっていきました。

 

親に後で聞いたら、当時「僕のために」と思って、あえて連絡を制限していたようで、つらかったと話していました。

 

留学はどのような手続きでされましたか?

 

直接学校に問い合わせて、ホームステイも探しました。初めは学校の先生の家でした。留学生はほかにいなかったので、全校生徒「こんな留学生が来ます」とアナウンスが流れました。

 

 

 

毎朝鏡に向かって「俺はなんてすばらしい人間なんだ!」

 

オーストラリア クィーンズランド州政府 髙嶋 大士

 

 

当時の英語力はどれくらいだったのですか?

 

英語が好きで、英語塾に行ったり、家庭教師もつけてもらったりして小学校5年生で英検準2級を取りました。小学校6年生の卒業アルバムに、将来の夢は「国際人になりたい」と書いていましたから。

 

ところが、留学すると、英語がまったくわからなかった。授業についていかなければならないという必死さと気力で単語を覚えていきました。

 

ホームステイでも初めはホームシックでしたが、話せるようにならないことには何も解決しないと思ったので、自分の部屋に帰らずに居間でホストファミリーと会話するようにしました。単語と単語をくっつけて何かを言う。そうすると、相手が単語と単語をくっつけて何かを返してくれる。それを聞いて真似をする。2年経つと、「どうして日本語にはこの表現がないのだろう」と、英語から物事を発想するようになりました。

 

そのまま大学、大学院までオーストラリアで留学されていますが、どんな留学生活でしたか?

 

高校まで人の2倍勉強しましたが、大学と大学院では3倍勉強しました。休暇中はサッカー、野球、ゴルフをして海にでかけて数週間思いっきり遊びました。

 

心がけたことは「何もかもぶつかっていく」こと。友だちと積極的に話し、自分から何でも参加して経験を増やす。オーストラリア人に比べると、自分も日本人に多い「シャイ」なタイプで、大学や大学院のプレゼンテーションは苦手意識があった。人前に出るのが恥ずかしい。

 

友人には「もっと自分に自信を持て」、「毎朝鏡に向かって、『俺はなんてすばらしい人間なんだ!』と言うといい」とアドバイスされ、実行してみたら、恥ずかしさがだんだん消えていきました。

 

ビジネススクールも「絶対やってやる」と自分に発破をかけて前に踏み出し、料理学校に通いながら卒業することもできました。

 

料理学校はどんなきっかけで通ったのですか?

 

高校生のころから一人暮らしを始めて、料理をするのが好きだったことと、オーストラリアは永住権を取得するのが難しいので、 MBAとともに、料理の資格も取っておきたいと思ったからです。大学院時代は朝から晩まで料理を学び、夜と週末はビジネススクールに通いました。1年間必死でした。

 

人生リスクヘッジが大事だと思います。ビジネスが立ち行かなくなっても、料理ができれば「手に職」が役に立つ。将来、食にこだわった仕事がしたいという気持ちもありました。

 

 

 

海外で暮らした庶民の生活の視点をいかしたい

 

オーストラリア クィーンズランド州政府 髙嶋 大士

 

 

大学院卒業後、オーストラリア州政府の公務員という難関の就職先を突破されました。就職活動ではどんなアピールをされましたか?

 

大学の先生からの薦めで応募しましたが、優秀な方がまわりに多かったので、半ば開き直って思いのたけをぶつけました。「自分はお客さんのサポートにかけては自信がある。商売の視点からプロジェクトに取り組みたい」と。それがよかったのか、採用されました。

 

小学生のときの夢は「国際人になりたい」、そして「政治家になりたい」ということでしたが、前者はすでに実現されています。後者についてはどうですか?

 

自分で将来的にやりたいことはいくつもあります。人生一度なので、今の仕事で経験を積んで、いろんな場所で仕事をしたいですね。50歳、60歳になったら政治家になりたいという夢はあります。日本に帰ってくると、こんなすばらしい国はないと実感する。外国のお客様も日本に来ると口をそろえてそう言います。

 

ただ海外で庶民の生活をしてきた視点から、こういうふうにすればもっと住みやすくなるという部分もみえる。日本の財政をどう押し上げていくかについてもいろんなアイデアがあるので、リーダーシップを発揮したいですね。

 

 

前編はこちら:

英語の交渉力は「雑談で会話をほぐす力」が決め手!

 

 

髙嶋 大士 (たかしま だいじ)

髙嶋 大士 (たかしま だいじ)

1981年、名古屋市熱田区生まれ名古屋市立千年小学校卒業する少し前、6年生の冬に留学を決意し、一人でオーストラリア クィーンズランド州に留学。現地の中学校と高校を卒業し、ボンド大学の国際ビジネス学士号取得。その後職業訓練学校にて調理師の免許を取得し、同時にグリフィス大学のMBA修士取得。2005年 オーストラリア クィーンズランド州政府内閣府に就職後、2006年には第一次産業省の貿易投資部に移動。2008年にクィーンズランド州政府駐日事務所に移動。州政府最年少で商務官に任務。2008年から2011年まで教育を担当しクィーンズランド州への留学をPR。自分の経験や留学の魅力をアピールし、今現在では食品担当としてクィーンズランド州の食品・商品を日本に紹介したり、日本からのクィーンズランド州へ投資していただく企業などを探してサポートしております。

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この記事の筆者について

斉藤真紀子

PROFILE

フリーランスライター。上智大学外国語学部英語学科卒業、米ブランダイス大学院文化人類学、女性学修士号取得。日本経済新聞米州総局(ニューヨーク)金融記者を経て、朝日新聞出版「AERA English」編集スタッフ、週刊誌「AERA」専属記者。2010年よりフリー。社会、ビジネス、海外、エンターテインメントなど幅広い分野で執筆。共著に「お客様はぬいぐるみ」(飛鳥新社)

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